EnCampの振り返り① -実践のための経験の理論-

3月1日、2日と東京大学中原研究室主催の「EnCamp」に参加してきました。
中原研に"ご縁"のある人を集めてCampをしようという試みで、
研究者・企業人・大学院生・大学生など40名弱もの多様な方が参加していました。

私、福山はその中の"実践の理論"のセッションで企画・運営をお手伝いさせていただきましたので、その内容を中心に"EnCamp"の振り返りをしたいと思います。

"実践の理論"セッションでは、実践を支える理論を学ぶというテーマで、
メンバーの4名で「パフォーマンス」「祝祭」「ポスト状況論」「経験」という4つの理論を選びました。
私は、今回は「経験」にまつわる諸理論をテーマに発表をしました。
発表をする際に考えたことは、いわゆる「経験学習」には触れず、「経験」そのものについて扱いたいということでした。

当初はパース→ジェームズ→デューイ→ローティ→現代のプラグマティズムという流れを考えていたのですが、今回、参加者が多様なこともありあまりにもプラグマティズムの歴史に引きつけた議論を行うことはあえてやめ、「経験のもつ現代的意義と求められる実践」というのをメインテーマに位置づけました。

(西洋の伝統的哲学とプラズマティズムについてそれぞれ1枚のスライドにまとめるという暴挙を働きました、発表資料は私のSlide Shareのページにひっそりと載せてありますので、興味ある方は探してみてください)

今回、この話をする際に注目したのはエドワード・S・リードという学者です。
彼は「プラグマティズム」とギブソンの「アフォーダンス」の理論を結びつけるという独自の哲学を展開したという点で斬新な学者でした。
私の議論は彼の著作「経験のための戦い-情報の生態学から社会哲学へ」とデューイの議論を元に展開しています。

私の発表の要旨は以下のようなものです。

【社会的な状況】

○かつて、社会には「よい学校」→「良い会社」→「良い生活」という、
多くの人が認め、通用する生き方の「絶対的なモデル」が存在した。

○しかし、現代ではそのようなモデルは崩壊し、絶対的な「良い生活」というものはもはや存在せずに、
自分なりの「良い生活」を模索していく必要がある時代になった。

⇒このような流れの中では、絶対的な真理がある哲学よりも、「実践」を重視し、経験の中から「修正可能な真理観」を生み出すプラグマティズムが参考になるのではないか

【現代社会と経験】
 
○我々が「経験」から生活の意味を生み出すことが必要だと仮定した場合、現代社会における我々の経験が軽視され・分断されているという問題に取り組まなければならない

○しかし、現代社会では、「間接経験」が過度に重視され、我々は環境を探索し世界から意味を引き出す能力(アフォーダンスの能力)を失いつつある。

 また、仕事も分業化され、デューイの主張する「経験の連続性」が失われている。

⇒我々は生物として基本的な能力を喪失しつつある

【現代社会に求められる実践】

○直接経験と間接経験を結びつけるような実践
 日常の経験を意味のあるものに感じられるようになる実践
 一緒に何かを経験するような(Shared Experience)実践

⇒今日のワークショップ等はこれらを目的にするようなものが多く見られる、
 このような実践は今後さらに重要性を増すだろう

…と随分とはしょりましたが以上のようなことを発表しました。

EnCampではゲーム関係ではない皆様からも"ゲーム"について多くの関心をいただき、
様々な議論をすることが出来ました。今振り返って、上記の発表に補足したいことがあります。

それは、「【現代社会と経験】で述べたことというのは、Jane McGonigalの"Gameful"」の議論とかなり類似しているということです。
(私は先日までこれもGamificationであると言っていましたが、井上明人氏の定義やJaneの最近の動向を受けて、"Gameful"と呼ぶことにしました)

Janeが著書「Reality is Broken」であげている、現代社会の壊れている点には、
・単純で満足できない仕事
・他者とのつながりの欠如
・自分のやっていることの"意味"の欠如

などがあります。

詳しくは次回の"Game×Learning×Fun"で(プログラムの都合がつけば)話したいと、
思っているのですが、"Gameful"とは「ゲームが持っている現実よりよい側面」を利用して、
現実を良くしていく(Reality is better)にしていく活動です。

”社会というものは良くしていける”というのはまさにプラグマティズム的発想です。

(ローティは改良主義的なリベラル左派でした。)

 

"Game×Learning×Fun"の詳細はこちら!

 

「経験のための戦い」の訳者も後書きでコメントしていることですが、1996年から16年経って、インターネットの普及などにより、我々の生活はさらに間接経験に埋め尽くされるようになりました。
そんな中で"間接経験"であるゲームの要素から我々の日常=直接経験を豊かにする手法が提案されるというのは、とてもアイロニカルで面白いことであると思います。

 

リードの本の最後に以下の様な言葉があります。

 

"我々の生活の意味は、自分でそれを探す努力を払うときにのみ見いだされるであろう"

 

我々は「自分の生活を意味づける能力」を今獲得しうるのか? 

そして、"Gameful"が生活の意味を見つけ出す助けに本当になりうるのか?

今後も注目していきたいですね。


なんだか全然EnCampの振り返りになっていないのですが、
あまりにも長くなったので、他のセッションにおける学びは次の記事で書きたいと思います。

追記(3/05 21:40)
東京都市大学の岡部先生に「それってセカイ系っぽいね」といわれたのがとても印象に残っています。
たしかに、規模の小さい"ゲームフル"な取り組みは自分(たち)の日常を壮大な何かに結びつけているという点でセカイ系的な要素を持っています。
大きな規模で何かをなせるような"ゲームフル"な取り組みというのは難しいと思います。
はじめはセカイ系でも、関わっている人が幸せになるのであればそれでもいいし、ゆくゆくは大きな動きになればいい、私は今のところはこう思います。

我々の生活の意味は、自分でそれを探す努力を払うときにのみ見いだされるであろう